保育の歴史

なんでもない会話のほうが難しい 倉橋惣三は「個人対話」と呼びました

絵本も読めなかった、製作も途中で終わった。そういう日の帰りに、今日は何もできなかったな、と思うことがあります。

倉橋惣三が1926年の『幼稚園雑草』に「個人対話の教育価値」という章を書いています。副題は「先生と子ども」。用意して読み聞かせるお話ではなく、いつのまにか交わしている会話のほうの話です。

引用は漢字を新字体に改め、仮名遣いは原文のままにしています。原文で繰り返しの記号になっているところは、「なかなか」のように仮名で書き直しました。

先生の「おはなし」は、始まる前から出来上がっている

章は、当時から誰もが大事だと言っていた「おはなし」の説明から始まります。

おはなしの教育価値に就ては知らないものはない。幼児教育の方法の中でも、最主要なものゝ一つとして、誰れでも、之れを重視し、また苦心する。

そのうえで、その「おはなし」がどういう形をしているかを分解します。

しかも、その所謂おはなしは、先生がして子供が聴くお話である。話し手と聴き手とがはじめから分けてあるお話である。 そればかりか、そのおはなしは其の話の始まらない前から出来て居るもので、それを先生が子どもの前に持ち出して来るのである。

話し手と聴き手が最初から決まっていて、話の中身も始まる前から出来上がっている。だから選ぶことと、どう出すかが問題になる、と続きます。

そこで、どんなものを持ち出してくるか(おはなしの選択)どういふ風に持ち出すか(おはなしの技術)といふことが大切でもあり六かしくもある問題になる。

「六かしい」は、むずかしい、です。選択は用意であり、技術は工夫である、とまとめています。

それとは別に、いつのまにか交換されている

ここから章の本題に入ります。

ところが、斯うした謂はゞ多少開き直つたお話しの外に、先生と子供とは、いつといふこともなく、何といふこともなく、どちらからといふこともなく、おはなしを交換する。

いつ始まったかも、何の話かも、どちらから始めたかも決まっていない。これが倉橋のいう「個人対話」です。

えへんと咳ばらひをして始める訳でもなく、しいんとして必ずしも耳をそばだてる訳でもないから、お話をして居るか居ないかも、恐らく多くの場合心づかずに居る位であるが、これがなかなか教育上意味の多いことである。

保育記録に残るような場面ではありません。やっている本人も気づいていない、と書かれています。

「必ずしも敢て劣らない」と書いています

同じ文が、そのまま続きます。

あの予め用意を以てせられるおはなしに必ずしも敢て劣らない教育価値をもつものである。そしてまた、なんでもないことの様で相当に六かしいことである。その細い工夫を以てせられるおはなしの六かしさにも、決してまけない六かしさのものである。

準備して読むおはなしに劣らない価値があり、しかも難しさにおいても負けない、という二段構えです。

ここが記事の芯です。 絵本を読む、製作をする、集まりで話す。そういう「やったことが形に残る保育」の外側に、同じくらいの値打ちのものがあると、100年前に書かれていました。

(「個人対話の教育価値」204〜205ページ/原典のコマ115)

桃太郎は、聴き手がいなくても桃太郎です

なぜ会話のほうを「個人」と呼ぶのか。倉橋は桃太郎を例に、おはなしと対話の違いを説明します。

一人に聴かせる桃太郎、多勢に聴かせる桃太郎といふ差別があらう筈はない。之れは、聴き手の数に何の関係がないといふよりも、聴き手の有無さへも、桃太郎のおはなしの存在には無関係のことだと言つた方がいゝのである。つまり桃太郎といふおはなしは、話し手、聴き手の間に取扱はれる前に、一つの童話として存在して居るのである。

聴く子が一人でも三十人でも、桃太郎は桃太郎のままです。対話のほうはそうはいきません。

しかるに、対話の場合に於ては、その相手が一人と一人とである場合は勿論のことゝして、人数は多勢が居るにしても、話そのものには個人的のものとして行はれるのである。

演説と対比してもいます。

演説は諸君よと、群集に説く。対話は、どこまでも、一人々々へ話しかける。そして、一人々々からの受け答へをまつ。

名前をつけると、当の対話が面くらう

そのあとに、名づけることへの断りが入ります。この章でいちばん倉橋らしいところです。

そんな訳で、個人対話と名をつけることにするが、こんな名をつけたりすると、其の一番大事な特色、即ち純自然的といふことを損じ易い心配もある。此の名はいはゞ、ありとも知らぬものを空気とよぶ様なもので、平生は忘れて居た方がいゝ。さあ太郎さん、これから個人対話を始めようなどゝ言はないことにして下さい。太郎さんが驚くばかりでなく、個人対話そのものが面くらつてしまふから。

名前をつけたそばから、その名前を忘れてくれと書いています。呼び名がついた瞬間に、時間割に入れたくなるのを止めています。

(「個人対話の教育価値」206〜207ページ/コマ116)

心と心との間の道をあける

章の後半は、個人対話の教育価値を2つ挙げます。1つめは、したしみです。

個人対話の教育価値は、数へて見れば随分沢山あるが、その中で一番中心なものは、人間性教育の意味に於てしたしみの教育の出来ることである。

そのしたしみを、こう言い換えています。

個人対話は、その心と心との間の道をあける一つの方法である。

2つめが、心のはたらきのほうです。ここで、正反対の2つのやり方が、どちらも否定されます。教え込むほうと、放っておくほうです。

次に、もう一つの大きい価値は、此の個人対話によつて、個人的に心のはたらきをすゝめ、促し、導き得ることである。子供の心の口を、あんと上に向かせて、上から物でも押し込む様に教へこむことの、真に心のはたらきを練る所以でないことは言ふまでもない。 と同時に、子どもの心を、自発々々と、たゞいなごの様に跳ねさせて、それだけで、心のはたらきの完い養ひの決して出来ないことも言ふまでもない。

口を上に向けさせて上から入れるのでもなく、放っておいて跳ねさせるだけでもない。片方だけを否定していないのが、この一文の要点です。 自由保育の園で保育者が何をするかで引いた幼稚園教育要領解説の「幼児をただ遊ばせている」だけでは教育は成り立たない、という一文は、このうち放っておくほうの否定にあたります。

では何をするのか。剣道が出てきます。

どちらにしても、子どもの心の教育は、もつと親切なことでなくては出来ない。丁度撃剣の腕を磨くのと同様に、先生が相手をして、撃たせて見たり、受けて見たり、撃ち込んでみたり、受けさせて見たり

「撃剣」は剣道のことです。相手をする、という言葉が使われています。教える側と教わる側ではなく、打ち合う相手として出てきます。

(「個人対話の教育価値」208〜209ページ/コマ117)

子どもの対話は、続かないのが普通です

理想を書いて終わりにはしません。章の最後で、子どもの対話が大人のそれとは違うことに触れます。

其の問題の事実興味が尽きれば、さつさと中止もすれば、勝手な決論へ飛躍もする。話してる傍へ犬でも来ればすぐ其の方へ飛んで行く。

そして、そこに大人のような対話を求めるとどうなるかを書きます。

ぢつくりと老人同志いつまでも茶をのみ煙管をいぢくつて面白がつて居る様な風の対話を、子どもに要求したら、子どもの真性を害することになる。

話が飛ぶのも、途中でやめるのも、犬が来たら行ってしまうのも、子どもの対話としてはそれが普通だという扱いです。

立ち話でいい、と書いて終わります

章の締めくくりが、この記事を書こうと思った理由です。

しかし、之を以て、個人対話の教育価値をすてゝはならない。殊に達道の大師範になれば、廊下や、庭の立話で、電車の中の十分二十分で、すつかり、見事に活きた心のはたらかせ方が養ひ得ないものではない。

廊下、庭、電車の中の十分二十分。まとまった時間も、専用の場所も要らないと書いてあります。

(「個人対話の教育価値」210〜211ページ/コマ118)

明日、確かめられること

  1. 今日いちばん長く話した子の名前を思い出す。 出てこないなら、明日はそこを見ておく。誰と話していないかは、意識しないと分かりません
  2. 活動の「前後」を数に入れる。 準備の間、外へ出る途中、片づけながらの会話。倉橋の言う個人対話は、たいていそこで起きています
  3. 話が飛んでも、途中で切れても、失敗として数えない。 倉橋は、そうなるのが子どもの対話だと書いています
  4. 「個人対話の時間」をつくらない。 名前をつけた瞬間に純自然的なところが損なわれる、というのが倉橋自身の断りです

倉橋は同じ本で、保育の仕事は手応えが返ってこないとも書いています。個人対話はその最たるもので、やっている本人も気づいていない、と本人が書いています。

記録に残らなかった時間が、何もしていない時間だとは限りません。 100年前の本に、そう書いてありました。

原典は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読めます。「個人対話の教育価値」は204ページから、コマ115以降です。

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