「非認知能力」って何? 国はこの言葉をあまり使っていません
研修でも園内でもよく聞く言葉ですが、国の資料を数えてみると、ほとんど使われていませんでした。しかも国の研究機関は「能力」という言葉自体を避けています。引っかかるのは、あなたの理解不足ではありません。
研修でも園内でも、よく聞く言葉です。「非認知能力を伸ばす」。
ただ、聞くたびに少し引っかかる方もいるのではないでしょうか。何を指しているのか、はっきりしない。 国の資料を読んでみたら、引っかかるのは当然でした。
まず、国はこの言葉をほとんど使っていません
今回読んだ資料で、実際に数えてみました。
| 資料 | 「非認知」 | 「社会情緒的/社会情動的」 |
|---|---|---|
| 保育所保育指針解説(374ページ) | 0回 | 1回 |
| 幼児教育ワーキンググループ 参考資料(73ページ) | 1回 | 1回 |
| こども誰でも通園制度の手引(62ページ) | 0回 | 2回 |
| 誰でも通園制度 基礎資料集(61ページ) | 0回 | 1回 |
いちばん上が大事なところです。保育所保育指針の解説、374ページ。 保育の拠り所で、たいていの園の棚に入っている資料です。そこに「非認知」という言葉は一度も出てきません。
たった1回だけ出てくる幼児教育ワーキンググループのほうも、中身を見ると保育の議論ではありませんでした。参考資料に束ねられている第4期教育振興基本計画(文部科学省側の資料です)の、ウェルビーイングに関するQ&Aの中の一文です。
社会情動的スキルやいわゆる非認知能力を育成する視点も重要です
「いわゆる」がついています。 しかも学校教育の資料の中の話で、保育について書かれた部分ではありません。
ただし、中身は指針に入っています
ここを誤解してほしくないのですが、言葉が無いだけで、話は入っています。
指針解説の序章に、こう書かれています。
様々な研究成果の蓄積によって、乳幼児期における自尊心や自己制御、忍耐力といった主に社会情動的側面における育ちが、大人になってからの生活に影響を及ぼすことが明らかとなってきた
自尊心、自己制御、忍耐力。研修で「非認知能力」として説明されるものと、扱っている中身は重なります。 国はこれを「社会情動的側面」と呼んでいます。
「非認知能力」は現場で使われている呼び名であって、制度の側の言葉ではありません。 指針から引こうとして見つからないとしたら、理由はこれです。
どこから来た言葉なのか
国立教育政策研究所(国の研究機関です)が、この言葉について283ページの報告書を出しています。そこに経緯が書かれていました。
ペリー就学前計画
きっかけは、1960年代にアメリカ・ミシガン州で行われた介入プログラムです。教育上のリスクがある子どもとその家庭を対象に、幼児教育プログラムと家庭訪問を実施しました。
実験群と統制群に分けて、40年以上にわたって追跡しています。そして40代の時点で、実験群のほうが犯罪率が低く、年収が高く、持ち家の割合も高いという結果が出ました。
ここまではよく紹介されるくだりです。ただ、報告書にはその先が書かれています。
実験群と統制群の子供たちのIQを比較すると、確かに、小学校入学後の数年間は実験群の子供のほうが優れた成績を示したという。ところが、次第にその差は小さくなり、小学校の中学年で統制群が実験群に追いついた後、両群に差は認められなくなった。
IQの差は、小学校の途中で消えていました。 それなのに40代の人生には差がある。
この結果について、ノーベル経済学賞を受賞したヘックマンらはこう考えました。
IQといった認知能力の発達に差が無いのであれば、人生の差を生じさせたのは「ソフトスキル」の差であるだろうと推測している
「推測」です。 報告書自身がそう書いています。測ったのではなく、差が残った理由をそう解釈した。それが「非認知能力」の出発点になりました。
なお「ソフトスキル」は、聞き慣れない言葉かもしれません。報告書がその場で説明しています。
まさに非認知的能力を指すものであり
同じものの、別の呼び名です。 ヘックマンが使った言い方が、日本に入ってくるときに「非認知能力」になりました。
OECDが名前をつけた
次に出てくるのがOECDです。OECD(経済協力開発機構) は、日本も入っている国際機関で、15歳を対象にしたPISAを実施しているところ、と言うといちばん通じると思います。ちなみにPISAの日本での実施を担当しているのも、いま引用している国立教育政策研究所です。
そのOECDが2015年に「Skills for Social Progress」というレポートを出し、認知的スキル以外のものを「社会情緒的スキル」と呼びました。「長期的目標の達成」「他者との協働」「感情を管理する能力」の3つの側面とされています。
日本で「非認知能力」という言葉が一気に広まったのは、このあたりからです。
なお、OECDが「スキル」と呼ぶ条件は、生産性・測定可能性・成長可能性の3つです。測れるものをスキルと呼ぶ立場だ、ということは覚えておいてください。このあと国立教育政策研究所が、まさにそこを疑うことになります。
定義が、そもそも広すぎます
報告書は、定義の問題をはっきり書いています。ヘックマンら自身の論文を引いて、こう書いています。
経済学の研究において非認知的能力とは認知能力以外のものを広く指す、と述べている
「認知能力以外のもの」全部。 これが定義です。報告書自身も「具体的な内容が見えにくい」と書いています。
そして「はじめに」には、こうあります。
非認知的能力とは一体どのようなものであるのか、十分な整理がなされているとは言い難いのが現状です
国の研究機関が、そう書いています。 引っかかるのは、読む側の理解不足ではありません。
国の研究機関は「能力」という言葉を避けました
この報告書は、研究の対象を指すのに「能力」ではなく「コンピテンス」という言葉を使っています。スキルが「全員が一様に備えるもの」を想定するのに対し、コンピテンスはこう説明されています。
個々の人間、子供がそれぞれの特性に応じた形で、いかにうまく特定の環境と相互作用することができるかを強調した概念
理由も書かれています。
皆が同じように身に付けるというよりも個人差や個人それぞれの在り様が多様であり、「できる・できない」というような能力としての表現がなじまない特徴も多く存在する
「多いほうがいい」と言えないものが混ざっている、ということです。
別のところでは、もっと直接的に書かれています。
パーソナリティ(性格)をいわゆる「能力」として捉えることの妥当性については議論が残る
性格を「能力」と呼んでいいのか。 ここが未解決のまま、言葉だけが広まっています。
東京都は、言い切っています
一方で、自治体の書き方は違います。東京都は「すくわくプログラム」で、この言葉を前面に出して定義まで書いています。
「自尊心」や「意欲」などの自己にかかわる心の力と、「共感」や「思いやり」など社会性にかかわる心の力は非認知能力と呼ばれています
分かりやすいです。 現場に伝えるには、このくらい言い切る必要があるのだと思います。
ただ、言い切られた側だけを聞いていると、引っかかったときに「自分の理解が足りないのかな」と思ってしまう。 そうではない、というのがこの記事で書きたかったことです。
では、次の指針には入るのでしょうか
ここで気になることがあります。
すくわくプログラムで「非認知能力」を前面に出している秋田喜代美氏は、保育所保育指針の改定を審議したこども家庭審議会 保育専門委員会の委員長を務めていました(令和7年10月時点の名簿による)。言い切っている側の人が、次の指針を作る会議を仕切っている。
だとすると、次の指針にこの言葉が入ってくるのではないか。そう考えるのが自然です。
調べたら、逆でした。
審議の到達点である「取りまとめ案」(今年8月、23ページ)を数えると、こうなります。
| 言葉 | 回数 |
|---|---|
| 非認知 | 0回 |
| 社会情動的・社会情緒的 | 0回 |
| 自尊心・自己制御 | 0回 |
| 資質・能力 | 86回 |
「非認知能力」は一度も出てきません。 代わりに、指針が前から使っている「資質・能力」という枠組みで書かれています。
中身のほうは、入ります
では心の育ちの話が消えたのかというと、そうではありません。
「育みたい資質・能力の3つの柱」のうち、「学びに向かう力、人間性等」 がその置き場所です。取りまとめ案には、そこに何を書くかまで踏み込んで書かれています。
「学びに向かう力、人間性等」については、従前より幼児教育が重視してきた心情、意欲、態度が育つ中で育まれることを考慮して整理するとともに、「初発の思考や行動を起こす力・好奇心」、「他者との対話や協働」、「遊びの主体的な調整」については、幼児期の後半をイメージして規定。
好奇心、協働、自分で遊びを調整する力。研修で「非認知能力」として説明されるものと、扱っている中身は重なります。
ただ、同じものとして扱うと落ちるものがあります
ここが勘どころです。
言葉が重なるからといって、同じように使っていいわけではありません。 指針の側には、扱い方の但し書きが必ずセットで書いてあります。
まず、資質・能力そのものについて。
個別に取り出して指導するのではなく、遊びを通した総合的な指導の中で一体的に育むよう努めることが重要
「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」については、もっとはっきり書かれています。
「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」が到達すべき目標ではないことや、個別に取り出されて指導されるものではないことに十分留意する必要がある
全ての子どもに同じように見られるものではないことに留意する必要がある
評価についても、釘が刺してあります。
子どもの発達等を何らかの基準に照らして到達度として評定することを目的とするものではない
取り出すな。目標にするな。全員に同じように求めるな。点数化するな。 4つとも書いてあります。
取りまとめ案も同じ向きで、3つの柱は「分けて示すのではなく、一体的に示すことが適当」としています。
「非認知能力」という言葉には、これがついてきません。 言葉だけが単体で流通するので、受け取った側が「取り出して、測って、伸ばす」に進んでも、止めるものがない。
中身が同じでも、ブレーキが付いているかどうかが違います。 ここを一緒にしてしまうと、指針がいちばん気をつけて書いた部分だけが落ちます。
ここまでをまとめると、こうなります。
- 中身は次の指針に入る
- 「非認知能力」という言葉では入らない
- 指針の側には「取り出して測るな」という但し書きが付く
まだ「案」なので確定ではありません。ただ、同じ人が関わっていても、東京都の事業では「非認知能力」、国の指針では「学びに向かう力、人間性等」と、使う言葉が分かれていることになります。
現場から見ると、これは実用的な情報です。研修で「非認知能力」と言われたときに、指針のどこの話なのか、そしてどう扱わないことになっているのかが分かるからです。
おとなしい子は「低い」のでしょうか
この言葉を聞いていると、外向的で、意欲的で、みんなと関われる子がいい子だと言われている気がしてくることがあります。指針が但し書きで止めようとしているのも、たぶんここです。
- おとなしい子、一人で遊ぶのが好きな子を、「非認知能力が低い」と見ていないか
- 「自尊心」「意欲」を、外から測って伸ばすものとして扱っていないか
報告書は、ここを正面から書いています。まず「能力」と「特性」は違うと整理したうえで、
パーソナリティは本来、その概念的定義からして、能力(ability)とされるべきものではなく、飽くまでも特性(trait)として扱われなくてはならないもの
そして、こうです。
状況如何では、あるいは個人の好みや価値観によっては、高い外向性を備えているよりも、むしろ適度に内向的である方が適応的かつ望ましいという場合が当然あり得る
内向的なほうが望ましい場合がある、と国の研究機関が書いています。 気をつけましょう、という話ではありません。おとなしいことは、低い状態ではないということです。
報告書は、能力として伸ばす以外の道も書いています。
個人が特徴(単純に価値付けを行うことはできない個人差)を持つことを前提に、それぞれの特徴に応じた社会的環境の整え方、教育的営為の姿を探求するという方向性
伸ばすのではなく、その子に環境を合わせる。 保育指針の「環境を通して行う」に近い発想だと思います。
明日、確かめられること
- 園や研修で「非認知能力」と言われたら、何を指しているか聞いてみる。 自尊心なのか、協調性なのか、我慢する力なのか。言う人によって中身が違います
- 「伸ばす」と言われたときに、何をどう測るのかを考えてみる。 測れないものを伸ばしたと言うのは、けっこう難しい話です
- 子どもの性格を「低い」と見ていないか、一度振り返る。 実害が出るとしたら、ここです
- 指針で読むときは「学びに向かう力、人間性等」を見る。 「非認知能力」で探しても、指針には載っていません。そして指針には「取り出すな・目標にするな・全員に同じように求めるな」まで書いてあります
否定したいわけではありません。 子どもの心の育ちが大事なのは、その通りです。ただ、「非認知能力」という言葉に頼りすぎると、かえって子どもが見えなくなる気がします。
国の研究機関が、性格を「能力」として捉えることの「妥当性については議論が残る」と書いていることは、知っておいていいと思います。
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